デザイン教育後進国、自称評論家

タイトルどおり、日本はデザイン教育後進国です。

デザイン系大学の専任教員をしていたころ、そのことは真っ当な教員たちの共通認識で、だからこそ自分たちはがんばらなければならないという気持ちで教育研究を行っていました。私自身、行政の公共サイン計画の提案書、景観アドバイザーなど、行政発のルール作りや運用に関わるチャンスもありました。しかし改善の方向を向かせるのはかなり困難です。

困難さのひとつの要因は、デザイン教育がなされていないからです。だからデザインを判断するための理論や客観性を持たない人がほとんどです。私の時代もそうだし、我が子たちの様子からもそうでしたが、義務教育の美術教育において客観的な判断を身につけられるような授業はなされていないのではないでしょうか。褒めるにせよ、けなすにせよ、論理と客観性が必要です。

そして日本が依然としてデザイン教育後進国であることは、東京オリンピックのエンブレム騒動で証明されてしまいました。根拠なく、盗作だと言った人たちのすべてが真っ当なデザイン教育を受けていないことは明白です。(エンブレムについては別のブログに詳しく書いてます。(^_^)v )

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ビジュアルデザイン(視覚情報デザイン)、音楽、料理、、、、、<好き嫌い>は個人の嗜好にまかせてかまいません。ところが、<良し悪し>は異なります。<良し悪し>の判断には、理論、知識、経験、観察眼が求められますが、好き嫌いは刹那的な判断でもかまいません。<好き嫌い>はコロコロと変わってもかまいませんが、<良し悪し>は違います。広大な時空間の中でゆっくりと変遷します。

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<良し悪し>と<好き嫌い>を別の尺度として捉えられるのがプロ、それができないのが素人です。

つまり、素人とは「(自分が)好きでなかったり、嫌いだったりする対象に、良くないとか悪いという言葉を使う人々」です。これは日常生活においては何ら問題ありません。困るのは解決が必要な専門的な話において「好き嫌い」を「良し悪し」で語ることです。

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ところで、評論はデザインと似ていて、<(自分以外の)誰のためにするのか>という観点から行うことが必須です。

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つまり、評論家は<良し悪し>を他者に伝える力を持つ人でなければ務まらない尊敬すべき職能です。ところが、インターネットの中には、自分の<好き嫌い>を正当化するようなことしか言わない自称評論家がたくさんいます。自分の好き嫌いと、それに基づいた恣意的で客観性のないことだけを書き連ねたり、対象の如何にかかわらず自分の価値観を押し付けて非難したりしながら、これは評論である!と言う人たちがたくさんいます。(「自分は評論家だ」とか「これは評論だ」のようなことを言わなければ問題なし。)

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そして、評論が存在しない一方で自称評論家が闊歩しているような分野は発展しません。

少年合唱や少年合唱団の世界はどうなのでしょう。少なくともインターネットの中で評論に値するものを見たことはありません。かく言う私は少年合唱には社会的価値、文化的価値があると信じていますが、評論として成り立たせるほどの知識も素養もありません。たんに好き嫌いを語れるだけです。

 

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