理系脳?、商品、Exif

血液型、星座などと同じく、理系/文系で人間のタイプを捉えるのは、雑談のネタとしては楽しいかもしれませんが、言うまでもなく人間のタイプとは無関係だし、出身学部とも無関係です。進学校でのコース分けにしか役立たない分類です。こういうことを言う人は、国語や社会が苦手で理系に進んだり、数学や理科が苦手で文系に進んだりしたことをカミングアウトしているのだと思います。

それはさておき、理系脳?、文系脳?というような言い方もあるようですね。(意味がわからないので「?」を付けてます。)

それらが使われている事例から想像するに、理系脳?とは、問題に潜む各種要因を、意味内容ごとに切り分けて捉えながら、総合的な解決に導く力を持つ脳であると思います(「それってホモ・サピエンスに共通する能力でしょ」というツッコミは今はご遠慮ください)。

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ブログやHPの運営には、システムの維持管理とコンテンツ制作という2つの側面があります。

システムの維持管理を誰がやったとしても、コンテンツ制作(少なくとも材料の提供)が可能なのは情報を握っている人、一般的には情報を発信しようとする組織の内部の人だから、当然、組織内部において何らかの負担が発生します。ブログを組織で運営するための検討を行う場合、理系脳?の持ち主は、それぞれのポジションで可能なことと不可能なことを合理的に切り分け、そのような負担をシェアする方法を考えようとするはずです。

システムの維持管理だけを取り上げてみると、たしかに一定の知識が必要なので「できない」という主張はありえます。ところが、いまはシステムがものすごくフールプルーフ化していて、難しい部分はほぼ完全にブラックボックス化しているから、オンラインショッピングする程度の操作スキルで管理できます。操作スキルの点で「できない」人はほんとうの少数派です。

なお、1990年代末ごろ以降、ほとんどの高等教育機関にPC教育が導入された後に卒業した人、あるいは2000年代に高校で情報教育が義務化されて以降に高校を卒業した人たちが「できない」と主張した場合、それは自分自身がきちんと学ばなかったことのカミングアウトにすぎません。だから「できない」と言わない方が賢明です。それ以前の古い人はできなくてもやむをえませんが、今後のさらなるIT化に適応できないままでいると高齢化時にいろいろと困るでしょうから、今からでも情報リテラシーを学ぶことを勧めます。ここ数年、よい教科書がたくさん出版されています。

「苦手だ」は言ってもかまいません。「あらそう、じゃ今から学んでね。」と答えればすむので。気をつけてほしいのは、ソフトが使えることと情報リテラシーを身につけることは全く別の話であり、ソフトを使えなくても情報リテラシーは身につけられるということです。でも、車を運転しない人でも、交通法規を身につけることができるのと同じです(というより、交通法規は車の運転とは関係なく、知っておかないといけません)。

話を戻して、もし「できない」という主張が受け入れられるケースとして、「(そのことに対する)責任の所在が曖昧な場合」があげられます。だから「責任を取れないから、できない/やらない/やりたくない」という主張は成立します。

ただし、ここで止まったら、自分には問題解決能力がないとカミングアウトしているのと同じです。タイムマネージメント能力がないことをカミングアウトするために「忙しい」と言ったり、スキルやノウハウがないことをカミングアウトするために「そんなのは趣味にすぎない」というのと同じです。

ここで、上に書いたような意味での理系脳?の持ち主であれば、「(このことについては)責任を取れない」と直感すると同時に、「では、現在、誰が責任を取っているか?」が疑問として浮上します。そうしたら「あれっ、誰も責任取れない状態だ!」と気付け、「組織を司る人たちにちゃんとしてもらわなければならい」と考えられます。そういう人が大半を占める集団であれば、物事はスムーズに展開します。

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また、コンテンツ作成について言えば、文章を書いたり、ほどよい写真を撮ったりするときにも理系脳?は役立ちますが、「心」だけでもなんとかなります。だから「できない」は、「自分には心がない」というカミングアウトです。

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理系脳?が必要な分野には、仮説、予測がついて回ります。つまり、これから起きるであろうことを考え、予め方法や答えを用意する力が必要だということです。(ホモ・サピエンスという生物に等しく備わった能力であるらしいですが、そうでもないように見受けられます。)

ひとつ問題が起きた場合、それの解消だけでなく、その問題が未来に与える影響を同時進行で考えなければ、同じ問題が、未来永劫、延々と繰り返される恐れがあります。

まだ黎明期で、不安定なインターネットでは、ひとつの種が、バラ色の将来とブラックな将来を同時に生み出す恐れが強いです。情報閲覧者にはバラ色の将来だけを見てもらえばいいですが、情報提供者は、つねに情報がもたらすバラ色とブラックの両側面がもたらすを予測しながら情報内容をコントロールする必要があります。ここにも切り分け能力が要求されます。

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たとえば写真を1枚ブログに載せるにおいても、情報の意味や提供目的から必要となる明瞭度と、セキュリティやプライバシー保護の点から必要となるぼかしの程度のバランスをとる配慮が必要です。たとえば、現在、ブラウザに大きく表示される写真のほとんどがオンラインショッピングなど商品写真(営利を目的とした写真)ですが、この場合は写真を大きく表示することで閲覧者へのアピールが強まるという重要な意味があります。では、一般人のブログやHP、あるいはSNSにおいて、個人写真を大きく表示して世界中の人にみてもらうことや、誰か知らない人に半永久的に保存されるかもしれないことに、いったいどのような意味があるのでしょうか。

情報リテラシーを学んだ人は決して個人写真を大きく表示させたりはしません。なぜなら、そのことによるリスクを知っているからです。

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写真掲載にあたっては、こう考えてみてはどうでしょう、、「自分は商品か?」

学校の場合は、「学生は商品か?」

桃太郎少年合唱団の場合は、「団員たちは商品か?」

家族なら、「我が子は商品か?」

悲しいことに、SNSなどで自分の子供の将来をタダで売っている親がたくさんいます。将来の大赤字を想像できないのでしょう。とにかく、「Exif」がなんだか分からない人は、インターネットで写真を公開しない方がいいでしょう。

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ところで、理系脳?の指し示すものが上に書いたようなことであったとしたら、文系脳?は情緒的判断力、他人や自分の心を考える力なのかもしれませんね。それを持っていない人間っているのでしょうか?

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付記:

コンテンツ作成あるいは情報提供において、「自分はうまく写真を撮れないから写真は無理」という人もいます。確かにオートフォーカスのカメラ出現以来、美学的な意味での「見るに堪えない写真」が増えているのは事実です。

しかし、むしろピンぼけや露出ミスで、何を写したか分からない写真の方がプライバシー保護の点で優れていることが、上に書いたことやこのブログの他の記事から分かるでしょう。

つまり、カメラ機能付きのスマートフォンかガラパゴス携帯を持っているにもかかわらず「(ブログ用の)写真を撮れない」と主張するのは「やりたくない」のカミングアウトです。「やりたくない」ことを否定はしませんが、「やりたくない」と言って許される場とそうでない場があることを理解し、いま自分がいる場がどちらであるかを判断して、適切な態度をとることが望まれます。

実際にはそういうカミングアウトではなく、「自分の腕に自信がないから、できない」というケースが多いのだと思いますが、時間と気持ちの負担をみんなでちょっとずつシェアして、全体を高めましょうという発想が出発点であることを考えてもらえたら、腕も自信も不要であることが分かるでしょう。(もちろん、プログラムやチラシのような広報メディアで使う写真は正真正銘のプロにお願いすべき。)

 

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