正解がひとつではない世界

「デザイン」は、日本では「見た目」への言及に適用される場合が多いですが、これはdesignの本来の意味を正しく反映した行為ではありません。「家やビルの設計」の「設計」を英語で言うとdesignでることから分かると思いますが、デザインするとはある目的のために何かを作り出すことであり、「見た目」はその結果としてできあがったモノに必然的に付随するものでしかありません。(※)

(※)affordanceの考え方から言えば、ほとんどのユーザーにとっては最初に「見た目」という入力情報があります。五感のうち視覚は、入力情報のほとんどの割合を占めます。だからユーザーの立場の人が最初から最後まで「見た目」についてだけ言及するのは自然です。でもデザインする者としては、人々にあと一歩二歩進んで、あるいはちょっと裏に回って、その「見た目」がいかなるプロセスを経て自分の目の前にあり、手に取ったり身につけたりできるようになったかに思いを及ばせ、そこに含まれる文化、歴史、民族、社会、人類や人間への理解や愛情などを感じとってほしいと願います。身近な例として榮久庵憲司さんのキッコーマン醤油の卓上瓶を手にとって、じっくりと感じてみてください。

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算数とは異り、デザインでは正解をひとつに絞り込むことはできません。たとえば「5人乗りの車がほしい」と思って世の中を見渡すと、驚くほど多種多様の「5人乗りの車」が走っています。それぞれに対する個人的な好き嫌いはあっても、「5人乗れる車をつくる」という目的で作られ、その目的を果たしています。

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このように、そのデザインが為された目的から見たときに、ある一定範囲内に収まっていればすべて正解です。

したがって、デザイン行為において大切なのは、正解を探し求めることではなく、間違いを犯さない態度です。間違いがひとつもないデザインはすべて正解です。

たとえば車の場合、フェラーリの「見た目」をけなす人はほとんどいないでしょう。しかしフェラーリのデザイナーたちが「見た目」だけしか考えていなかったらどうなるかを想像してみればよいと思います。

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間違いに気づくためには、素養、学習、訓練、経験が必要です。それを持たない人に可能なのは、その対象を「(自分が)好きか嫌いか」を答えることだけであり、それ以上のことを言ってはいけません。逆にデザインする者は、相手に対して好き嫌いの判断だけをしてもらえば十分であるところまで、予めデザインを論理的に高めておくことを求められます。そして、デザイン料の多寡とは関係なく、間違いを含まないデザインを提供する心がけが大切です。

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で、上記がどう桃太郎少年合唱団と関係するか?

Think for yourself, ‘cause I won’t be there with you. (by George Harrison)

 

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